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創りたい、でも、
未来に負担をかけたくない   
~ 私が彫金を選んだワケ ~

経歴

1966
房総半島の先端、千葉県 安房郡 富浦町(現 南房総市)というところで生まれる。

1988
千葉大学 工学部 工業意匠学科(現 デザイン工学科) 卒業

1988
神奈川県にある自動車会社でデザイナーとして働き始める 
(毎日こんな絵描いてました)
また、この頃から、趣味として彫金を始める

1995
太平洋でサーフィンをしていたら、海の向こうで誰かが自分を呼んでいる気がした。会社を休職して、青年海外協力隊員として、コスタリカ国に赴任。同国のナショナル大学 工芸美術学科でデザイン基礎を教える講師として教鞭をとる。ついでに同学科の彫金工房で助手を務める。

1998
3年間の任期を終えて帰国。会社に復職すると、デザインを行う部署から商品企画を行う部署へ配属換えとなる。グローバルマーケティング、あるいは輸出のセールスプロモーションなどを担当し、ドミニカ共和国やメキシコなどの中南米を中心に、世界中あちこちの国を、飛び回ることになった。
この間、彫金の修行も継続

2003
退職し、日本の彫金の本場、山梨県甲府市に移り住み、さらに彫金の修行に励む傍ら、彫金工房「冨銀」を設立する。 

2005
故郷の南房総に新工房を開設


このような経緯で、現在は彫金を生業としております。大学を卒業したときは、まさか自分が彫金師になるとは夢にも思いませんでした。
小学生の頃、思いっきりスーパーカーブームの洗礼を受け、そのままカーデザイナーへの道をまっしぐら、大学で工業デザインを勉強した後、自動車会社で働き始め、少年時代からの夢をかなえた幸せなサラリーマンライフを送っていたわけです。
が、5年目を過ぎた頃から、若いうちに、とにかく一度、日本を出てみたい、という気持ちがむくむくと頭をもたげ、どうやってもその漂泊の思いがやまず、会社を休んで青年海外協力隊プログラムに参加しました。

やはり、この経験は大きいものでした。3年間、コスタリカという国で過ごしたおかげでわかったこと、感じたことは数え切れませんが、そのなかでも特にその後の自分の生活に大きく影響を与えた事は

 1)「お蔭様で」という気持ちが大切。
誰かに連れて行かれて、コスタリカで暮らしたわけではない。自分から望んでいったのだから、そこに住む、自分の周りにいる人たちに敬意と感謝の気持ちを持たないと暮らしていけません。でも、それは、日々の暮らしでも、自分の生まれた国にいても同じ事。

 2)挨拶が大切。
とにかく、朝おきてから、出会う人出会う人、みんなに「おはよう」といっていれば、人生何とかうまくいく。他の人との関係があるから、自分も人でいられるわけです。

 3)家族が大切。
何より大切なのは、家族です。幸せというのは、会いたい人に、会いたい時に会えること、というのを教わりました。家族と会って、一緒に過ごす時間が自分の生きている時間に喜びと深みを与えてくれます

帰国後、勤務していた会社の都合で、デザイナーではなくて、マーケター(というのかな)あるいは、車の行商人となって、中南米やアラビアたまにはヨーロッパなんかもぐるぐると飛び回っていたわけですが、どこに行ってもこの3つ信念はとても大切で、この3か条さえ心得ていれば、世界中どこへ行っても、とはいわないけれど、たいていのところで、すんなりと現地に溶け込めて、仕事でも旅でも、うまくいくと感じました。

そんな生活を続けながらも、一度、デザイナーという経験をした後では、何か物を創り続けていないと、自分という存在が危うくなるような危機感、いわゆる、レゾンデトールの喪失感にさらされていたので、会社での仕事とは別に、個人的に彫金を続けてきました。自動車のデザインをしている時にも感じたのですが、どうやら自分は固いものが好きなようで、サラリーマン時代も、布やプラスチックにかこまれたインテリアのデザインというのはどうにも楽しめませんでした。今となって言えるのは、金属、特に金や銀の、硬いけれども、液体としての性質も備えているというところ、つまりやさしい硬さに惹かれていたんだと思います。(これはつまり、金属の結合が自由電子によるもので、しかもその結晶内に転移というひずみを多数もっているおかげなんですが、、、)

さらに、彫金を初めて分かったこの世界の素晴らしさ、人々が、金・銀・プラチナそのものに価値を認めてくれるということは、決して、捨てられない、燃やされない、素材としてのリサイクル率はほぼ100%
あなたの指にある金の指輪の、その金の分子そのものは、数千年前に、クレオパトラが指にはめていた金の指輪が、とかしとかされ、周り廻って、あなたのもとに来たのかもしれないという、ロマンチックなエコロジーシステムです

そんなこんなで、会社員としては世界中を飛び回り、休日には仲間と朝っぱらからサーフィンして、夜な夜な彫金作品を造る、お気楽な日々を送っていたわけですが

会社の仕事でいろいろな国を訪れる中で、やはり、世界はとっても広いんだという気持ちが日増しに強くなり、その一方で、自分が生まれ育った故郷、狭い意味では、房総半島先端の小さな町、広い意味では同じ言葉をしゃべる人が集まる祖国、日本にたいする情愛が大きくなってきました。
大きな会社で仕事をしていると、インターナショナル、グローバル、という言葉が飛び交い、あたかも地球は小さくなっているように言われますが、外国に行って、違う国の人と親密になればなるほど、やはり地球はでかく、そこには、いろいろな人々がいて、いろいろな文化があるんだと思い知らされました。そして、それぞれの文化に対して、理解と敬意が払えるようになればなるほど、自分が育った日本の文化や生活も、より良いものに思え、もっとよく理解したいと思うようになりました。

一方で、Employeeとしての自分達のやり方、つまり、米国式のビジネススタイルがグローバルスタンダードであり、そこにはまらないものは遅れている、あるいは間違っている、と考えているような方々にも、日本人に限らず、たくさん出会いました。会社というものの第一義が利益追求である以上、同じように利益追求を第一義として発展してきた資本主義経済の実験場でもある米国スタイル、考え方が、Employeeとしては正しいわけですから、会社のため、そして家族のために一生懸命働く人たちを、間違っているというつもりはまったくありません。自分も同じように、利益を追求して一生懸命働いてきたわけです。
ただ、カリブ海の楽園のような島国で、一日中、自動車の売込みをして、へとへとになって戻ったホテルでネクタイを緩めた時に、こんなに遠くで、自分はいったい何をしてるんだろう、と思ったりしてました。

出張で訪れた、ボリビアのアンデス、5000メートルの峰々を超えながら、ディーゼルエンジン車両の高地対応マーケティングをしていた時のこと
アンデスの雄大な自然の中、突如として、廃車置き場が現れました。製品が優秀であるが故、でしょう、この過酷な環境の高地で選ばれるのは日本製の車ばかり、結果として、廃車置き場には、日本製の歴代の車が山のように積み重なり、地面には油が垂れて、とことん使い古されたタイヤもピラミッドのようになっていました
その光景を見た瞬間、世界中から鉄鉱石や原油を買い集めて日本で造った車を、今度は世界中に売り歩く、その先に、なんだかとんでもない未来が、よろしくないほうの未来が、待っているというビジョンが、ぱっと、頭に浮かびました
自分が頑張れば頑張るほど、車がますます売れて、車がますます造られ、この地球の上で、人間が暮らすことの意味をゆがめてしまうんではないだろうか、、、、

まさにそんな時、大学地代の友人から、突然、遠い国の見知らぬ街角にて、と書き添えられた、こんな絵はがきが届きました。
大学卒業後に欧州に渡り、イギリスやイタリアでデザイン活動を続けてきた友人からの手紙
Pensa glovalmente, Actua localmente スペイン語なんですが、そのまま訳すと、「グローバルに考えて、ローカルに活動しよう」となります。
この、ローカルに活動しよう、という部分は、自分としては、「地に足をつけて生きていこう」と訳したほうがしっくり来るのですが、まさにその時の自分の心境を表していたようで、このまま、広い世界を狭く捉えて企業活動を続けていていいのだろうか? 自分のしていることは、この逆で、ローカルに考えてグローバルに活動しているんじゃあなかろうか、などなど、

いろいろと考えてきたこと、感じたことががっちりとつながり、いよいよ会社員であること、大量生産・大量消費の供給側である事を辞めて、以前から続けてきた彫金の仕事を、地に足をつけて、一生続けていこう、という決心にいたったわけです。

そんなわけで、この彫金工房「冨銀」も
Pensa glovalmente, Actua localmente
「地球規模に物事を考えながら、地に足をつけて生きてゆこう」
という基本理念のもとに活動を進めてまいりますので、今後とも、よろしくお願いいたします。

彫金工房「冨銀」 主宰者 出口 洋
 彫金工房「冨銀」
Nago925-26 Tateyama-shi Chiba-ken, Japan
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